一応説明

まぁこのブログはほとんどがザスパサポだとは思いますが、それ以外の方々もいるので、念の為説明を。
ザスパ草津というチーム名は実は2002年からで、その前身はリエゾン草津というチームでした。えーい、書くのがめんどい。以下見てくれ。


1995年 群馬県草津町に東日本サッカーアカデミーが設立。このチームが母体となり、リエゾン草津が結成される。監督にモンテネグロ人のラトコ・ステボビッチ氏を迎え、群馬県社会人サッカーリーグ4部に登録し、同リーグ優勝
1996年 群馬県社会人サッカーリーグ3部で優勝
1997年 群馬県社会人サッカーリーグ2部で優勝
1998年 群馬県社会人サッカーリーグ1部で7位に終わりシーズン2部に降格
1999年 経営難のため、東日本サッカーアカデミーが閉鎖され、選手も4名まで激減。それでも地元クラブ、元選手たちの協力でチームは存続し、群馬県社会人サッカーリーグ2部に残留
2000年 ラトコ・ステボビッチ監督が復帰し、群馬県社会人サッカーリーグ2部に参加。2位
2001年 群馬県社会人サッカーリーグ2部で優勝するも、チーム事情により選手が激減。12月に関係者の紹介で、大西忠生植木繁晴、賢持僚右の3名が草津町を視察
2002年 現代表取締役である賢持がチームの再建に着手し、奥野僚右を監督に招へい。チーム名も、リエゾン草津からザスパ草津に変更。群馬県リーグ1部で優勝
2003年 図南クラブとの入れ替え戦に勝利し、関東リーグ2部参戦。その後、日本サッカー協会へ「Jリーグ入りを標榜とするクラブに対する優遇措置」を申請し、7月に認められる。同関東リーグ2部で優勝し、特例により地域リーグに参加。ここでも見事優勝し、最短でJFL昇格


この4名まで減った中の1名は今は、ザスパの2軍のコーチをやってます。選手としては2002年以前からザスパにいたのはこの堺だったのです。。。働きながらサッカーをやってる、というイメージが草津にはつきものですが、まさに堺を初めとした選手だった訳です。(ちなみに私は2004年からのまだ浅いサポ)


その堺選手がこの間の試合で、(週刊サッカーダイジェストで)マンオブザマッチになりました。まるで映画のようなストーリー。

そして・・・このようなストーリーを持っているだろう人々はこれだけいるんですね。